昭和四十三年十二月七日 夜の御理解
信心というのは神様を信ずるという事だと思うんですけれども、又その信ずるところから信ずる者を、又神様は信じて下さるというのがお徳です。ですから私共が神様を信じてかかればやはりそれだけのおかげがあります。ですから信心させて頂いて段々本当な神様の働きを信じさせてもらう、確信させてもらう稽古、又は修行をしっかりしなければいけません。神様は信じてくれ信じてくれと言うて、その、なあにも影も形も無いものを信じてくれとおっしゃるのじゃない。ね、神様は本当に成程影形こそ見えんけれども、これこそ神様のお働きだなあと分からして頂けれる働きというものを見せて下さる、又は聞かせて下さってからの事でございますから、そこんところを自分達の信心でいよいよ頂いていかなきゃならんと。
今日も丁度四時の、私が御祈念をさしてもらいよる時でございましたが、熊本から山田氏夫妻が御信者さんを伴のうて御礼参拝させて頂いた。そして先月があちらの御大祭でしたから、御大祭の御礼と同時に信者さん一同での献金、この御造園の事についての献金と、それからそん中のしょくださんという方が自分の庭にあった大きなツツジを小型のトラックいっぱいあるような大きなツツジを、もうそれこそ降ろしましたら丁度六畳の間いっぱいとは言わんでしょう、こう広がって。私、その、一寸見て下さい???あったらち言うもんですから、こうまいツツジかと思いよったところが、兎に角トラックいっぱい、そんかわり、もう、あの何て言うですか、こう何て言うですか、あれは、えっ何とかブロック、ジンブロックて言うですか、ジンブロックを持ってみえとりました。それで、まあ二三人でおそらく庭園の方ですから、あちらまで車入れてもろうて、あちらで降ろさせてもらったんですけれども、もう本当に、あの、この前、二三日、昨日一昨日ですかね、あの、東梅里さん所謂有名な庭師さんですが、この正月からいよいよ本格的に自分が一生一代の仕事をひとつ合楽の教会に打ち込みたいと。もう御自分も七十二歳になられますから、もう本当に打ち込んで皆さんが任せて下さるなら、この庭を私が一遍崩してしもうていいなら私がやりましょうというような事でお約束が出来ました。
そん時にこれだけは必ず寄せてくれと、他の木はもう集めてくれるなと、けどもこれだけは集めてくれと言うておられる中に、その淀川の大きなツツジをひとつ集めてくれと言う事でした。それが昨日一昨日でしたよ。いや、熊本まで聞こえたじゃろうと梅里さんの言いござった事がと言うて、今日は話した事でございますけれどもねえ。
例えばこういうような神様の働きというものを目のあたりに見ますとです、本当に有難い事だなあと、こう思うです。あれはもうつがる事も間違いないでしょう。何遍も上から下からはちがついておるからと、もう見事な根が。まあだ縄で括ってありますけれども、縄解いたらもっと広くなるでしょう。もう偉大なツツジです。そういうような事からです、皆さんが、例えばここでは神様の働きを目のあたりに見る事が出来る、又は聞く事が出来る。ですから信ずるという事はね、それを信ずる事なんだ。それを銘々の信心の打ち込みによって頂いていこうと。
これも四時の御祈念に、私、お礼を申させてもらいよりましたら、丁度温泉地帯はあんな風でしょうがね、温泉でも出るように、その自然石を使って、沢山、こう、この岩風呂的な温泉がいくつも出来ておる所を頂いた。どういう事であろうか。ところがまだ中に湯も水も入ってない訳です。どういう事であろうかと私は思わせて頂きよりましたら、御理解にですね、もうここには間違いなく湯が出ると見極めなければ温泉は建てんという御理解を頂きました。
ここには間違いなくお湯が出るんだと、少し掘ったらお湯が出るんだと、という事で見極めが付いたから、ここに温泉旅館なら温泉旅館を建てておるのだと。このような見事な、例えば金光教合楽教会というものがここに建立された。難儀な氏子が取次どんどん助けられる。もうここなら助かるという事が分かった。神様のお恵み、お恵み、神様の願いというものがここにです、ある事が分かったから、こういう見事なお広前が出来たんだと、という御理解なんです。してみると、ここでです、いよいよ私を初め皆さんがです、いよいよ、そのお湯の出るところまで打ち込まなければ信心に打ち込まなければ掘り下げなければ、そこから尽きることの無い渾々とした熱い湯が出てくるようなおかげを頂いて、はあ極楽極楽というような温泉が出来るのである。
だからこれが出来ただけではいけんの。だから打ちこぼしで頂くという事によって、私が何が分かるかと言うと神様の働きを信ずる力が生れてくる。打ち込まなければ分からん。
例えば、なら少年少女会の方達、今晩から明日にかけてから信心の稽古をする訳ですけれども今度のみどりという、あの文集を見てもそうです。打ち込んで、子供ながらも打ち込んでおる者は、皆んなそれぞれ体験を受けておるて。書いておるものを見れば分かる。子供なりにも打ち込んでおる者はそこにはっきり神様の働きを見ておる、感じておる、ね。打ち込むことによって神様をいよいよ信じる力が生れてくる。そしてそこに湧き出ることろのお湯に行き当たる事も出来る。そこに初めて信心によらなければ頂けないところの極楽の興とでも申しましょうか、安心の境地とでも言いましょうか、日々をいわゆる金光大神の境地です、どちらにおっても何を見ても聞いても有難いなぁ勿体ないなぁという気持ちが頂けるのはそこから先なんです。そういう例えばおかげを目指させてもらう。
こういうお広前がここに建立されたという事は、もうここにならば間違いなく打ち込みさえすればおかげが受けられる。神様はこれを実証して下さっておる訳なんです。だから打ち込めばおかげが受けられる。必ずお湯が出ると、私はいう訳だと、私はこう思うのです。
それを例えば、なら空手形的なものでです、さあこれを信じてくれとは言うてござらない。はっきりと手形を見せながら、ね、いよいよ私共の心の上にも、ね、場合にはお試しもある、ね。勉強させて頂いて、その勉強の結果を見るために先生が必ず試験をするようなもの、ね。ですからそこんところをお試しをお試しと思い試験と思うて、それによって日頃の信心の稽古をさせて頂いておるが、どの位信心の稽古を積んでおるかという事を確かめ確かめしていきながら、本当なものへ本当なものへと突き進んでいかなければいけない。そこからいよいよ信じて限りない私は信心が生れてくる。そこから尽きぬおかげが渾々と湧いてくる。そういうおかげをお互いが目指さなければいけないと思うんですね。どうぞ。